「見る」ということ

人は、生きている限り様々なものを見ています。見ると言う行為は、通常何の疑問もなく通り過ぎるものですが、見たもののその瞬間を固定して、何度でも見たいという欲求が写真を生み出しました。芸術は押しなべて同じような動機から派生していると言えます。永遠を求めて人は絵画を、そして彫刻を刻んだと言えます。それは、一瞬を永遠に閉じ込めると言うことです。言うなれば、一回性である人生を、再現性のあるものにしたかった・・と言えるのでしょう。その中で、芸術としての写真の特殊性は、表現される物象が、その作家が生み出したものではなく、森羅万象の一部であり、作家はその域を踏み出すことが出来ないという制限の元に構成されているという点にあります。
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写真が持つ制限的な表現形態は、自ずとその表現の主体である表現者に影響を与えます。いわく、「物事は思うようにはならない」という当たり前な現実に直面するのです。その一方で、思うようにならないからこそ、写真は「真実を写す」という属性を担保するのであって、リアリズムという側面で言えば、あらゆる表現活動の最上位に写真がおかれると言うのも、写真自体が持ちえる、その属性に拠るところにあります。端的に言えば、表現者が何を表現しているかなどという、文学や絵画などにおける論議は、写真においては、全く意味を成さず、表現者を突き抜けて、被写体自体が語りかける物語を聞くことが写真における正しい鑑賞方法なのでしょう。であれば、芸術における表現者というあり方自体が写真芸術では欺瞞であり、表現者は本来、イタコであるべきなのかもしれません。
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被写体も表現者も一回性の生命を生きています。それを、光と影が織り成す化学反応として、写真は固定します。言うなればその一瞬を永遠として捕獲するわけです。捕獲された光と影はどこにも逃げられません。一方、人は永遠ではいられません。それぞれの運命に翻弄され、いずれは消えてなくなります。しかし、写真は、その視線をいつまでも固定します。そして、私たちはその視線の先にあるものに思いをはせることが出来るのです。それは、その一瞬を永遠に閉じ込めたいという表現者の意思が、時代を超えて私に語りかける瞬間です。その瞬間があるからこそ、人は写真を撮り続けるのでしょう。
尾道で原田富夫回顧写真展が行われています。


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